くらしきコンサート

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2007/02/16

言葉が語らないもの(公演チラシより)

2001年の初来日まで、日本ではまったく無名のヴァイオリニストだった。9.11テロ直後のアメリカからやってきた青年が鮮烈な印象を残したのは、イデオロギーのにおいも感情過多なパフォーマンスもなく、ただ音楽を表現するために強い意志で聴衆の前に立っている、凛とした美しさのせいだったかもしれない。まだ若い音楽家の真摯な姿が会場の緊張をやわらげ、人々の心を深いところで結び合わせたという希有の音楽体験こそ、おそらくどんなキャンペーンより確かに彼の存在を語り広めたに違いなかった。
青年は今も当時と変わらず、飾らない素朴なたたずまいのままだ。ところがステージで楽器を構えたとたん、もはや音楽家以外の何者でもない気高い顔になる。最初の音が鳴り渡った瞬間、私たちは、この知的で穏やかな青年の魂の内に、雄々しく天駆ける龍が生きていることを思い知らされるのである。

台湾出身の両親のもと、アメリカのメンフィスで生まれたジョセフ・リンは、名門ジュリアード音楽院でヴァイオリンを学び、その後ハーヴァード大学に進んだ。「比較宗教を勉強して世界の多様性を見ることができた。これが自分の音楽の視野を広げ、さまざまな可能性に気づくことにつながった」。古琴を中心に中国音楽も研究していて、それがヴァイオリンの音色に若手らしからぬ陰影を与えていることも見逃せない。ジュリアードとハーヴァード、いずれも“先輩”にあたるチェリストのヨーヨー・マは早くからジョセフ・リンを絶賛しているが、これは単に中国という同じルーツをもった弟分だからではなく、音楽で体現されるものの本質が似ているからだろう。2人とも東洋と西洋を身体と音楽の内にとけあわせ、のびやかな演奏によって、古い型にとらわれない自由と解放のここち良さを共有させてくれる。躍動と瞑想の間を行き来しながら、演奏者が見事な語り部となって聴衆を導くさまは、さながら音楽の伝道師である。
しかし、それは催眠術のような無自覚の陶酔とは違う。聴衆は音楽を通して自分自身に出会い、自ら物語を紡ぎ始める。その無数の物語の主人公に向かって、音楽は言葉が語らないものを伝えようとしているのだ。ジョセフ・リンのヴァイオリンが胸に響くのは、“言葉が語らないもの”にこめられた共感と、それを見つめる清廉なまなざしを人々が感じとるためである。世界の哀しみに耳を澄ませ、この時代を生きる私たちの孤独を前にして一切の言い訳をもたず、そっと隣人の心に寄り添う誠実さが彼の音楽を支えている。

心に砂漠のような渇きが広がる現代、音楽家と聴衆、一期一会の出会いの中で、ジョセフ・リンの音楽は美しい啓示となる。今回は彼と同じくジュリアードで学んだアメリカの新星ピアニスト、オライオン・ワイスが共演。若い2人の才能が歌い上げる音楽の無上の喜びを、多くの人と分かち合えますように――

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【ヨーヨー・マからのメッセージ】

ジョセフとは彼がハーヴァード大学の学生だった時に出会い、演奏を聴く機会に恵まれました。ジョセフは非常に才能あふれる音楽家です。演奏テクニックと専門分野の神学が結びつくことで、〈音楽〉と〈音楽の社会における役割〉についてユニークな見方がもたらされるのです。ジョセフの演奏テクニックと音色は素晴らしく、その演奏には徹底的な作品研究から生み出される洞察力と思慮深い表現が反映しています。
2000年にハーヴァード大学を卒業後、芸術性をより深める道を選択した彼は、ほとんどのアーティストがあまり通らない道を歩き続けています。音楽家仲間として、この特筆すべき若者の成長を見守ることは楽しいことです。みなさまが彼の演奏をお楽しみ下さることを希望しております。

ヨーヨー・マ(チェリスト)

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第79回くらしきコンサート公演チラシ

ジョセフ・リン
写真:Amy Rose Talylor