ニュース 一覧へ戻る 2005/10/26 逆境のモーツァルトに希望と栄光をもたらしたプラハの「フィガロ」(公演チラシより) CONCERT チェコのプラハは、モーツァルト(1756-1791)にとって、その短い人生が悲愴な晩年に入っていく直前に、最後の栄光をもたらしてくれた町である。 31歳の誕生日も近い1787年1月、プラハ市民の歓声に包まれて、モーツァルトは自作のオペラ『フィガロの結婚』を振るため、スタヴォフスケー劇場の指揮台に立った。初演したウィーンでは上演9回でいったん打ち切りになった『フィガロ』が、半年たって思いがけずプラハで空前の大フィーバーを巻き起こしており、その熱狂ぶりをぜひ見てほしいと招かれたのである。モーツァルト自身、滞在中に『フィガロ』のフレーズを口ずさむ市民の姿を町中で見かけたという。人々の歓迎と音楽への愛情に直接ふれた彼は、ウィーンでの地位と人気が揺らぎつつある境遇をしばし忘れて、音楽家冥利をかみしめていたにちがいない。 このオペラの原点であるボーマルシェの戯曲が、<才気に長けた庶民>と<堕落した貴族>の階級対立を描いた喜劇で、当時すでに上演禁止の問題作だったことはよく知られている。宮廷劇場で働いていた台本作家ダ・ポンテが、皇帝ヨーゼフ2世をうまく口説いてオペラ化の許可を取り付けるにあたっては原作の毒気を薄めざるを得なかったが、モーツァルトの音楽が、削られた台詞以上の威力を発揮したおかげでオペラはひとまず成功をおさめた。しかし、この年ウィーンでの上演は長くは続かなかった。不運は重なるもので、フィガロを作曲していた頃までは大盛況だった彼の“予約演奏会”(出資者を事前に募っておこなう演奏会で、当時の音楽家の重要な収入源だった)も、客足が遠のき始める。ウィーンにおけるモーツァルトの圧倒的な人気は、なぜか『フィガロ』上演を境に、急速に陰りを帯びてくるのである。あてにしていた収入が減り、金勘定に疎いモーツァルトは借金まみれになって、やがて取り返しのつかない窮乏生活に陥っていく。 だから、プラハの『フィガロ』の大ヒットは、こうした斜陽の予感の中でモーツァルトが手にした、貴重な「希望の光」だった。 モーツァルトが五線譜に刻んだ奇蹟の音楽を、ウィーンの大方の上流階級はつまみ食いで味わったにすぎなかったが、プラハの人々は心の底からモーツァルトの音楽を愛し、その機知と真実を理解した。ちなみに劇場は、『フィガロ』のあとモーツァルトに新作オペラを委嘱、それを受けて誕生したのが『ドン・ジョヴァンニ』である。以来このスタヴォフスケー劇場が延々200年以上にわたってモーツァルトの作品を上演し続けているのは、このように当初から彼の名作オペラと切っても切れない強い絆で情熱的に結ばれているからだ。神童が大人になったと見るやたちまち興味を失い、彼の熱心な就職活動にもかかわらず門前払いをくらわせた18世紀の貴族たちの非情さに比べたら、なんという愛情、なんという信念だろう。映画「アマデウス」のオペラシーンにも登場する同劇場は、今も“モーツァルト劇場”の愛称で市民に親しまれている。 2006年はモーツァルト生誕250年。かつて失意の天才を救ったプラハの歴史的な劇場が、モーツァルトへの深い尊敬と愛をこめて、あの日の『フィガロ』の興奮を携え日本にやってくる。 スタヴォフスケー劇場劇場内部2006年はモーツァルト生誕250年 前の記事 次の記事
チェコのプラハは、モーツァルト(1756-1791)にとって、その短い人生が悲愴な晩年に入っていく直前に、最後の栄光をもたらしてくれた町である。
31歳の誕生日も近い1787年1月、プラハ市民の歓声に包まれて、モーツァルトは自作のオペラ『フィガロの結婚』を振るため、スタヴォフスケー劇場の指揮台に立った。初演したウィーンでは上演9回でいったん打ち切りになった『フィガロ』が、半年たって思いがけずプラハで空前の大フィーバーを巻き起こしており、その熱狂ぶりをぜひ見てほしいと招かれたのである。モーツァルト自身、滞在中に『フィガロ』のフレーズを口ずさむ市民の姿を町中で見かけたという。人々の歓迎と音楽への愛情に直接ふれた彼は、ウィーンでの地位と人気が揺らぎつつある境遇をしばし忘れて、音楽家冥利をかみしめていたにちがいない。
このオペラの原点であるボーマルシェの戯曲が、<才気に長けた庶民>と<堕落した貴族>の階級対立を描いた喜劇で、当時すでに上演禁止の問題作だったことはよく知られている。宮廷劇場で働いていた台本作家ダ・ポンテが、皇帝ヨーゼフ2世をうまく口説いてオペラ化の許可を取り付けるにあたっては原作の毒気を薄めざるを得なかったが、モーツァルトの音楽が、削られた台詞以上の威力を発揮したおかげでオペラはひとまず成功をおさめた。しかし、この年ウィーンでの上演は長くは続かなかった。不運は重なるもので、フィガロを作曲していた頃までは大盛況だった彼の“予約演奏会”(出資者を事前に募っておこなう演奏会で、当時の音楽家の重要な収入源だった)も、客足が遠のき始める。ウィーンにおけるモーツァルトの圧倒的な人気は、なぜか『フィガロ』上演を境に、急速に陰りを帯びてくるのである。あてにしていた収入が減り、金勘定に疎いモーツァルトは借金まみれになって、やがて取り返しのつかない窮乏生活に陥っていく。
だから、プラハの『フィガロ』の大ヒットは、こうした斜陽の予感の中でモーツァルトが手にした、貴重な「希望の光」だった。
モーツァルトが五線譜に刻んだ奇蹟の音楽を、ウィーンの大方の上流階級はつまみ食いで味わったにすぎなかったが、プラハの人々は心の底からモーツァルトの音楽を愛し、その機知と真実を理解した。ちなみに劇場は、『フィガロ』のあとモーツァルトに新作オペラを委嘱、それを受けて誕生したのが『ドン・ジョヴァンニ』である。以来このスタヴォフスケー劇場が延々200年以上にわたってモーツァルトの作品を上演し続けているのは、このように当初から彼の名作オペラと切っても切れない強い絆で情熱的に結ばれているからだ。神童が大人になったと見るやたちまち興味を失い、彼の熱心な就職活動にもかかわらず門前払いをくらわせた18世紀の貴族たちの非情さに比べたら、なんという愛情、なんという信念だろう。映画「アマデウス」のオペラシーンにも登場する同劇場は、今も“モーツァルト劇場”の愛称で市民に親しまれている。
2006年はモーツァルト生誕250年。かつて失意の天才を救ったプラハの歴史的な劇場が、モーツァルトへの深い尊敬と愛をこめて、あの日の『フィガロ』の興奮を携え日本にやってくる。
スタヴォフスケー劇場
劇場内部
2006年はモーツァルト生誕250年