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2009/08/25

水島愛子さんが語るバイエルン響とヤンソンス   【その2】

現在第1バイオリンを務める水島さんは、桐朋学園からウィーンに留学しました。それがなぜ、ドイツのバイエルン響に入団されたのでしょうか。「男性社会の封建的なウィーンでは私の活躍の場はなかったのです。BRSOはとにかく弦の音色が美しく、当時の指揮者だったクーベリックに師事したい気持ちも強かった。ただし空きがなく、出産を挟みながら、ニュルンベルグのシンフォニーやミュンヘン室内合奏団のコンサートマスターとして計1半ほど過ごし、BRSOに書類を送り続けました。返事がなく、諦めて引っ越し手配までしていたらオーディションしますと。結果は合格。そして今に至るんですよ」
たくさんの指揮者に率いられたバイエルン響。それぞれの指揮者の特徴と思い出を教えてもらいましょう。
「ラファエル・クーベリック(2代首席・1961~78年)は心の大きな人。温かい人間性が音楽にも満ちていました。サッカーとチェスが大好きで、試合の日は稽古を切り上げたり・・。グルメで何度も団員を食事に招待してくれました」
「コリン・デイヴィス(82~92年)は努力家でしたね。その次のロリン・マゼール(93~2002年)は、みなさんご承知の通り!気難しく、気分屋。無茶とも思える膨大な要求をしてくる。当時はとんでもない!と思ったけれど、オケはすごく実力がついたと思います」
首席指揮者以外に、思い出に残る指揮者は誰でしょうか。水島さんは「何をおいても、レナード・バーンスタイン」と言います。
「バーンスタインは戦後、ドイツのオケでは長い間振らなかった。彼がアムネスティ慈善公演で初めてドイツのオケと共演したのが私たちでした。その時のベートーヴェンの第4番は感動的でした。奇抜で面白く、ハートに満ちている人でした」と本当に懐かしそうです。
実は水島さんは来年定年を迎えます。「だから、オケとは最後の来日公演になります」と感慨深そう。最後に、長く海外のオケで活躍した経験から、日本で楽器を学ぶ若者にアドバイスしてもらいましょう。
「こんなことがありました。バイエルン響のオーディションは書類選考後、全団員の前で演奏して投票します。以前、バイオリン候補36人のうち、日本人とスイス人が最終まで残った。最後の演奏で、日本人は完璧な出来、一方のスイス人は不十分でした。でも、団員が選んだのは、失敗しても飛躍への可能性を感じさせた後者。日本人演奏家は、まず師匠のコピーで、技術は完璧だが創造性と自己主張に欠ける。欧州のオケで活躍しようと思うなら、まず、この点を見直してみてくださいね」。

日本人のパイオニア的存在水島愛子さんは、今年定年を迎えます。

団員に話しかけるヤンソンス。和やかな雰囲気のリハーサル風景。