ニュース 一覧へ戻る 2005/07/27 大野和士指揮 ベルギー王立歌劇場管弦楽団 そこに、音楽を必要とする人々がいる限り--(公演チラシより) CONCERT 海外で活躍する日本人指揮者が増えている。“ウィーンの小澤征爾”ならクラシックを聴かない人も名前ぐらいは知っているにちがいない。では<モネ>の大野和士、はどうだろう。この場合の<モネ>が画家の名前ではなく、造幣局の跡地に建てられたことに由来する名門劇場の通称である(モネ=「マネー」お金)という話は知る人ぞ知るトリビア。ましてや大野が、かつて戦火の地で市民のために音楽に取り組んでいたことに至っては初耳の人が多いのではないか。 大野は東京芸大を出たあと、文化庁在外研修員としてバイエンルン州立歌劇場で巨匠サヴァリッシュの薫陶を受け、その後1988年に、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任した。ザグレブは現在のクロアチア共和国の首都だが、当時のクロアチアは旧ユーゴスラヴィア連邦のひとつで、ソ連解体のあおりを受け、セルビアとの民族対立など深刻な内戦が勃発。四季に彩られる美しいザグレブの街も、やがて連日の砲火にさらされて音楽どころではない状態に置かれた。 しかし、オーケストラは活動を続けた。遠い外国からやってきて、戦争が始まってもこの地を去ろうとしない指揮者カズシ・オオノがいたからだ。大野は決断する。演奏会を続けよう。街に音楽を響かせよう。音楽の使命感に燃えてチャレンジをおそれない大野の気質と誠実な人柄が、窮地の人々を勇気づけた。オオノは我々を見捨てない-- 楽団員に、それがどれほど心強かったか。このオーケストラは、対立する民族が共存する唯一の残された場所でもあったのだ。こんな非常時こそ、パンよりも銃よりも人間を支えるものがあることをザグレブの人々は理解していた。砲撃の爆音がとどろく中、灯火管制にもかかわらず、戦争に対する無言の抵抗のように市民は集い、オーケストラは誇り高く鳴り続けた。 「戦争下で息をひそめながら集まってきた、ホールを覆いつくさんばかりの聴衆の熱気に、取り憑かれたように演奏した」と回想するザグレブ時代は、大野にとってさまざまな意味で忘れがたい日々である。クロアチア独立の91年をはさんで、90~96年は音楽監督・首席指揮者としてさらなる重責を果たしている。こうした激動の時代、大野の心中で次第に明確になっていったものがあった。それがマーラーの音楽である。作曲家の生地ボヘミアのカリシュトによく似た雰囲気をもつザグレブは、マーラーのキャリアの発端となった街にも近く、またその交響曲に出てくる旋律が、街のあちこちで耳にする地元の音楽に酷似していたのだそうだ。そのような環境に身を置いてマーラーの交響曲をひとつひとつ心血を注いで演奏した体験は、スコアだけの指揮者とは比べようもない充実した成果をもたらした。そんな大切なレパートリーのマーラーを今回私たちは、彼の来日オペラ公演に先立っておこなわれるオーケストラ・ツアーで聴くことができる。 2002年、ベルギー王立歌劇場(通称モネ劇場)は、300年に及ぶ伝統の新時代を託すべき音楽監督として、大野を迎えた。彼は数ヶ国語を操り、ガラ・コンサートや大曲公演さえも暗譜で振ることができる驚異的な頭脳の持ち主である。すでにドイツ・カールスルーエのバーデン州立歌劇場でオペラ指揮者としてすぐれた業績を残し、東京でも20世紀初めのオペラ(ファシズムによる弾圧や戦争のために上演の機会が失われた作品)を紹介するシリーズ企画など国際的な注目を集めており、大野は劇場関係者の絶大な信頼を得て、膨大なレパートリーと経験を携え<モネ>に就任した。登場人物の心理まで熟知した鮮やかな作品解釈、長年オペラの現場で培った“音楽の物語性”を紡ぐ力量を、ベルギーの聴衆が熱烈に支持したのはいうまでもない。 音楽を愛し、必要とする人々のために大野は喜んで汗まみれで働く。少年のように瞳を輝かせ、全身全霊で音楽を捧げる。それはオペラにとどまらず、シンフォニーのステージでもレクチャー・コンサートでもまったく同じだ。聴衆に愛と情熱を真摯に伝えてくれる、こんなに頼もしい音楽家はめったにいない。 待ち望まれた<モネ>の初来日。信じ合う仲間たちと、大野和士が日本に帰ってくる。 大野和士(指揮)写真:Johan Jacobs ベルギー王立歌劇場管弦楽団 写真:Bart Dewaele モネ劇場(外観) 写真:Johan Jacobs 前の記事 次の記事
海外で活躍する日本人指揮者が増えている。“ウィーンの小澤征爾”ならクラシックを聴かない人も名前ぐらいは知っているにちがいない。では<モネ>の大野和士、はどうだろう。この場合の<モネ>が画家の名前ではなく、造幣局の跡地に建てられたことに由来する名門劇場の通称である(モネ=「マネー」お金)という話は知る人ぞ知るトリビア。ましてや大野が、かつて戦火の地で市民のために音楽に取り組んでいたことに至っては初耳の人が多いのではないか。
大野は東京芸大を出たあと、文化庁在外研修員としてバイエンルン州立歌劇場で巨匠サヴァリッシュの薫陶を受け、その後1988年に、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任した。ザグレブは現在のクロアチア共和国の首都だが、当時のクロアチアは旧ユーゴスラヴィア連邦のひとつで、ソ連解体のあおりを受け、セルビアとの民族対立など深刻な内戦が勃発。四季に彩られる美しいザグレブの街も、やがて連日の砲火にさらされて音楽どころではない状態に置かれた。
しかし、オーケストラは活動を続けた。遠い外国からやってきて、戦争が始まってもこの地を去ろうとしない指揮者カズシ・オオノがいたからだ。大野は決断する。演奏会を続けよう。街に音楽を響かせよう。音楽の使命感に燃えてチャレンジをおそれない大野の気質と誠実な人柄が、窮地の人々を勇気づけた。オオノは我々を見捨てない-- 楽団員に、それがどれほど心強かったか。このオーケストラは、対立する民族が共存する唯一の残された場所でもあったのだ。こんな非常時こそ、パンよりも銃よりも人間を支えるものがあることをザグレブの人々は理解していた。砲撃の爆音がとどろく中、灯火管制にもかかわらず、戦争に対する無言の抵抗のように市民は集い、オーケストラは誇り高く鳴り続けた。
「戦争下で息をひそめながら集まってきた、ホールを覆いつくさんばかりの聴衆の熱気に、取り憑かれたように演奏した」と回想するザグレブ時代は、大野にとってさまざまな意味で忘れがたい日々である。クロアチア独立の91年をはさんで、90~96年は音楽監督・首席指揮者としてさらなる重責を果たしている。こうした激動の時代、大野の心中で次第に明確になっていったものがあった。それがマーラーの音楽である。作曲家の生地ボヘミアのカリシュトによく似た雰囲気をもつザグレブは、マーラーのキャリアの発端となった街にも近く、またその交響曲に出てくる旋律が、街のあちこちで耳にする地元の音楽に酷似していたのだそうだ。そのような環境に身を置いてマーラーの交響曲をひとつひとつ心血を注いで演奏した体験は、スコアだけの指揮者とは比べようもない充実した成果をもたらした。そんな大切なレパートリーのマーラーを今回私たちは、彼の来日オペラ公演に先立っておこなわれるオーケストラ・ツアーで聴くことができる。
2002年、ベルギー王立歌劇場(通称モネ劇場)は、300年に及ぶ伝統の新時代を託すべき音楽監督として、大野を迎えた。彼は数ヶ国語を操り、ガラ・コンサートや大曲公演さえも暗譜で振ることができる驚異的な頭脳の持ち主である。すでにドイツ・カールスルーエのバーデン州立歌劇場でオペラ指揮者としてすぐれた業績を残し、東京でも20世紀初めのオペラ(ファシズムによる弾圧や戦争のために上演の機会が失われた作品)を紹介するシリーズ企画など国際的な注目を集めており、大野は劇場関係者の絶大な信頼を得て、膨大なレパートリーと経験を携え<モネ>に就任した。登場人物の心理まで熟知した鮮やかな作品解釈、長年オペラの現場で培った“音楽の物語性”を紡ぐ力量を、ベルギーの聴衆が熱烈に支持したのはいうまでもない。
音楽を愛し、必要とする人々のために大野は喜んで汗まみれで働く。少年のように瞳を輝かせ、全身全霊で音楽を捧げる。それはオペラにとどまらず、シンフォニーのステージでもレクチャー・コンサートでもまったく同じだ。聴衆に愛と情熱を真摯に伝えてくれる、こんなに頼もしい音楽家はめったにいない。
待ち望まれた<モネ>の初来日。信じ合う仲間たちと、大野和士が日本に帰ってくる。
大野和士(指揮)写真:Johan Jacobs
ベルギー王立歌劇場管弦楽団
写真:Bart Dewaele
モネ劇場(外観)
写真:Johan Jacobs